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  第7回目 曽根次郎・太郎坂 2011.5.17(火) 参加費 6,900円

尾鷲市と熊野市の市境である甫母峠(305m)を越えて約 5.5Kmを歩きます。
室町時代にこの地の治安を治めた曽根弾正の墓、美しい石畳や猪垣、江戸時代の築城に使われた石材の石切場跡などの見所を巡ります。
 

コース:近鉄奈良駅→尾鷲おとと→加賀駅〜尾鷲古道〜曽根次郎・太郎坂〜二木島駅付近〜鬼ケ城→近鉄奈良駅 

参加者:13名(西川・上田・海老沢・片山・小宮山・酒井・関川・水谷・種井・馬場・堀下・山岸・清水) 
 5:00 起床。 
 7:30 近鉄奈良駅スタート。 今日の添乗員は辰巳さん。 
9:15
 関インター 〜 11:10 道の駅「海山」 〜 11:50 JR賀田駅そば賀田湾の前で昼食。
 
昼食
12:45  昼食後バスで数分移動して、登山口からウオーク開始。
バスの総員37名を二手に分けて、われわれは「大川ガイド」の案内で付いていく。
大川ガイドいわく「前々回の八鬼山に登った人には何も注意する点はありません」と。

登山口

登山口には六地蔵

日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六道とは地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道である。
日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。

 12:54
登りはじめてすぐ右手に「曽根五輪の塔」。

これは戦国時代曽根近隣八ケ村を治めた曽根弾正夫妻と長男孫太郎の墓碑で弾正五輪塔は室町時代の形式である。
夫人の五輪塔は承応3年(1654)、孫太郎板石塔婆は明暦3年(1657)の銘がある。



曽根五輪の塔
 
 13:14
石切り場跡。

岩盤に石を切り出す時のくさび(矢穴)の跡を明瞭にとどめている。

このあたりには大きな石を切り取るために掘った穴(矢穴)の跡がある石がたくさん見られます。
およそ350年前、江戸城本丸中の門の修復の際に紀州藩より献上された熊野曽根石が石垣の角石や角脇石に使われたことが熊本細川藩の古文書に残されています。
石は1.4m×3.5mの大きさのものなど大小合わせて40個運ばれています。
石の質も同じでここが採石場跡と思われます。




石切場跡
 
 13:15
石切り場あたりから石畳道が続く。

道脇には「猪垣」も目に入る。

石畳道
13:27  
巡礼供養碑。 

ここ次郎・太郎坂には供養碑が三つあるそうな。
八鬼山には四つあるそうで、その数により難易度が分かるとか。

この碑には早朝に亡くなったことが、碑の戒名「東雲・・・」から想像できると。

西国33ヶ所巡礼のたびに出る人は心に悩みのある人や身体に病を持つ人が多かった。
旅にとは一生の念願である伊勢参宮を無事終えると田丸で巡礼姿に改め、熊野参詣道を南下、曽根浦を進行して、第一番札所の那智山青岸渡寺を目指した。
この難所の曽根次郎太郎坂で、急に容態が悪くなる巡礼もいた。村人たちは医者にも診せて看病し不幸にして志望すれば、国許へ訃報を出し地元の負担で手厚く仮葬して、初七日の供養も怠らなかった。
これは江戸後期文政13年(1830)とら四月、ここで倒れた武州足立群中之田村の人の供養碑である。・・・

東雲須道信士と読める
途中では大川ガイドが草々についても説明してくれる。

リュウビンタイ(シダの原型だとか)

一両の木
13:35

13:45
 しばらく行くと峠の手前道の両側に一里塚跡。
一里塚には普通榎木が植えられているが、ここはサクラとマツだったとか。

そして「くじら岩」。
以下は始神峠あたりの民話だが、たまたまこの岩がくじらに似ているところから「くじら岩」と名付けたと。

母子くじらの話

むかし、奥熊野の入り江に鯨を捕って豊かな暮らしをしている白浦という小さな漁村があった。
ある年、くじらがまったく捕れなくなった。

 ある日の夜、常林寺の和尚さんのまくら元に、たいへん美しい女の人が現れ、「あした、わたしは子を産むために南の海へいきます。前の海を通りますが、どうか、私を捕らないでください。お願いします。」といって消えた。
 あくる朝、和尚さんは、夢の中の人は母くじらだと思い、漁師たちの家いえへ出かけたが、もうみんな沖へ漁に出たあとだった。

 そのころ、一人の漁師がくじらを見つけた。みんなはいっせいにくじらを舟で取り囲み、手はずよくくじらを捕った。
久しぶりの大漁に喜びながら、舟が戻り、 大きなくじらが捕れたことで、村人たちがたくさん集まった。
さっそくくじらを浜へあげ、男たちがさばき始めると、和尚さんが夢で見たとおり、おなかの中に子くじらが入っていた。

 それから、この村では、病気になる人が次々と出た。また、海が荒れて、多くの人が亡くなった。そこで、村人たちは、母子くじらの霊を慰めるため、白浦の入口の丘に立派な墓をつくり、手厚く弔った。それからは、悪いできごとが起こらなくなったという。
 母子くじらの墓“腹子持鯨菩提之塔”は、今も白浦の入口の海の見える丘に建っており、白浦の人たちによって大切に守られている。


一里塚跡

くじら岩
 14:00  くじら岩から急坂を登ると、甫母峠(305m)。

峠にはほうじ茶屋があった。
ほうじ(傍示)とは領地の境界を指す。ここは中世の頃、志摩の国と紀伊の国の境だったといわれている。

甫母峠の地蔵

集合写真(右端が大川ガイド)
 14:20 甫母峠で登りは終わりかと思ったら、まだもう少し登ると「楯見ケ丘」。ここが最頂部か。
途中には倒れても枯れずに頑張る杉の木。名付けて「イナバウアーの杉」または「ど根性杉」。

イナバウアーの杉?ど根性杉?

楯見ケ丘
楯見ケ丘からは下るのみ。
二人転ぶ。 

ギンレイソウ(ユウレイソウ)

ミツバツツジ
山を下ってくるとまた猪垣が目に付く。

昔の農民は狭い田畑を開墾し、猪避けに苦労してこのように石垣を築いた。
私財をなげうって築いた人の記念碑もそばにあった。


ここで大川ガイドの説明はおしまい。
今までの7人のガイドの中で一番大きな声ではっきりと話してくれ分かりやすかった。

猪垣
 16:00

山を下りきり、バスに乗車。

ゴール前
 
 16:40  鬼ケ城。

バスを降りて数分歩くのだが、ここでアラレかヒョウか!(だれだ!ヒョウおんなは?)

鬼ケ城

集合写真
 17:40  道の駅「おとと」。アルコール&夕食仕入れ。
 19:40 関インター。 〜 21:15 奈良着。  
22:00
生駒駅から上田氏の車に乗せてもらい帰宅。
本日のDor To Dor の歩行数=19,146歩。

第8回目 二木島・逢神坂峠の道 2011.6.20(月) 参加費 6,900円
第8回は古くから捕鯨の里として知られる二木島から古道に入ると、ほぼ全区間に苔むした石畳が通じています。
伊勢と熊野の神が出会う場所という意味の逢神坂峠(標高290m)を越えると新鹿海岸の眺望が開けます。

コース:近鉄奈良駅→鬼ケ城→二木島駅〜二木島峠〜逢神坂峠〜逢神坂案内標識付近→鬼が城→近鉄奈良駅

参加者:13名(西川・上田・海老沢・岡本・小宮山・酒井・関川・水谷・種井・馬場・堀下・山岸・清水)
 
 7:30 いつもと同じように7:30 奈良駅スタート。〜関インター〜まんぼう〜 
12:00  鬼が城で昼食。予定では食後すぐに近くの二木島駅まで行きそこからウオークが始まるはずであった。
ところが、バスの外はドシャ降り。
 12:30 ドシャ降りのため弁当屋の車が遅れて到着。
語り部、添乗員がJTB本部とも相談しながら、実行するか中止するか相談している。

少し小止みになったところで、実行と決定。
「最近、この熊野古道シリーズで転倒等の事故が2〜3続いている、くれぐれも事故にはご注意を・・・」と語り部より。 
 13:50
スタートが遅れたため二木島駅からではなく、二木島登り口までバスで移動してウオーク開始。

登り口
 
 14:35






二木島峠到着。

道はずーっと苔むした石畳。

「く」の字でジグザグに進むかなりの坂道。

くの字の坂道

二木島峠
 
 15:19 小雨が降ったり止んだりの中、道端のお地蔵さんを見、コケ道をゆっくり進み、逢神坂峠に着く。

お地蔵さん

降ったり止んだり
 
逢神坂峠にて
 
逢神坂峠を過ぎるとあとは下るのみ。
濡れたコケ石の上は滑りやすく危ない。我がグループのよその人は二度もスッテンコロリ。

後ろのグループでは「注意しろ注意しろ」と言っている先頭の語り部がスッテーン。あな、はずかしや。 
16:24

山からほとんど下りたところで新鹿(アタシカ)海岸が美しい。

新鹿(アタシカ)海岸
 
 
ガイドの中西さんが道端の木の葉を説明している。

「不老不死の木」という言葉が聞こえるが、はっきり聞き取れない。

想像するところでは多分、秦の叙福が「不老不死の妙薬を求めて和の国の羽田須に来た・・・」という話ではないかと思う。

不老不死の木
 16:30





 
下山了。

梅雨の最中の熊野古道、雨が降るのは当たり前!

なのに皆の行いの良いお陰で小雨の中をウオークすることが出来た。

良かったね。

今日のお山、逢神坂峠
 22:00


 毎度のことながら生駒駅からは、上田氏の車に乗せてもらって帰宅。
本日のDor To Dor の歩行数=15,342歩。
第9回目 波田須の道 2011.7.20(水)

台風のため中止
 
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