ゆうほ会オプション行事として種井・西川氏の発案による熊野古道。
|
|
|||||||
8:00 |
|
||||||
9:25 | 関インター。 | ||||||
11:15 〜 11:50 |
小公園着。 弁当をもらって食事して語り部(松永)さんの説明を受ける。
|
||||||
11:50 〜 13:15 |
雨の中、小公園からスタートする。 かなり強い雨! カッパを頭からかぶっているので蒸し暑い。 栃古川に沿って緩やかな坂道を歩く。 雨に喜んでサワガニが沢山お散歩だ。 杉林はもともと田んぼだったところへ戦後植林した。今は何の手入れもされずに荒れ放題。
|
||||||
13:15 〜 14:05 |
|
||||||
14:35 | ツヅラト峠着。 間違えたところからわずか30分で峠まで登れていたのだ! 地元の語り部さんなのに信じられないミステイク!
|
||||||
15:50 | 峠からピストンバックでスタートの小公園。 ここから雨のため割愛した部分を荷坂峠までバスで迂回していく。 |
||||||
16:15 |
|
||||||
16:30 | 荷坂峠着。 峠の手前、トンネルを出たとたんに他の乗用車と接触! ここでは別の語り部さんからのお話を聞く。
昭和5年に国鉄が開通してからめっきり寂れたと。 |
||||||
20:13 | バスは奈良駅にゴール。 | ||||||
本日のDor To Dor の歩行数=26,246歩。 |
|
|||||
8:00 〜 11:50 |
近鉄奈良駅スタート。 運転手は大江、添乗員は駒沢さん。 バスは46名のお客を乗せて、西名阪を走り 〜 関インター 〜 嬉野インター 〜 道の駅まんぼうで昼食。 |
||||
12:25 |
|
||||
12:50 |
|
||||
13:20 |
|
||||
13:40 |
|
||||
14:00 |
|
||||
14:50 | 三浦峠から緩やかな下り道で熊谷橋。 熊谷橋は1944年頃に流失したままになっていたが、2005年の世界遺産指定を機に元の基礎を使い総檜造りの古来の橋梁工法で復元した。両杖の支柱は樹齢150年以上、直径800mmの巨木を使い総工費は2,200万円、とある。
|
||||
15:10 |
|
||||
15:35 | 道の駅まんぼう。 | ||||
18:30 | 自宅着。
|
|
|||||||
8:00 8:10 |
近鉄奈良駅スタート。 JR奈良駅スタート。 バスは奈良交通、運転手は西迫さん。添乗員は上田君。 乗客は我々10名を含め総人員約28名。 コースは毎回の通り、西名阪〜関インター〜道の駅「まんぼう」から「さくら広場」始神駐車場で昼食。 ここにはボランティアガイドがすでに数名待機していた。 ここのガイドは写真のようなお揃いのユニフォームを着ている。(地区地区によって違うのか?)
食後ボランティアガイドの川口夫妻の紹介を受ける。 |
||||||
12:20 | 大舟橋そばの公民館広場で準備体操の後、川口夫人ガイドの先導でウオーク開始。
|
||||||
12:50 | 川原を渡り明治道・林道に入るとすぐに宮谷池。
|
||||||
13:00 〜 |
林道を歩いていると所々に見事な石積みが目に入る。
|
||||||
14:00 | 明治道・江戸道の分岐を経て、始神峠展望台に着いた。
標高わずか147mとはいえ、峠の展望台からは紀伊の松島の島々が熊野灘に浮かぶ優美な景色が開ける。澄んだ日は志摩半島まで見渡せるそうだ。 昔の人はここの眺めで旅の疲れを癒したという。 茶屋跡の裏側には土台の石積みが残っていた。 足元を見ると古い形の三角点! 「476」と刻んであった。 標高 476尺のことか?
|
||||||
14:18 | 峠から勾配道を曲がり曲がり下ると「十二曲り」と書かれた石標。 今回は峠からさくらの広場方向へ逆に下ったが、こちらから登るとこの曲がり曲がり登る坂道は相当応えたそうな。
|
||||||
14:26 | 始神坂を殆ど下りきると「洗い越し」。
旅人はここで草鞋の汚れを洗い流したとか・・・。数ヶ所に残っているという。
|
||||||
14:40 | 始神坂登り口にたどり着いた。
“始神峠は標高147mにすぎないが旧熊野街道の中で景勝の地として知られてきた。 明治20年代に現国道42号より山手を巡り峠に至る道が開かれた。荷車も利用できるその新道は明治道と呼ばれた。 それまでは歩道のみの、この江戸道と呼ばれる古道が本街道としての役割を果たし続けてきたのである。 峠まで約1kmほどの道程であるが、途中には石畳道が残り、絶景で知られた頂上には江戸時代から明治の中頃まで営業していたと言われる茶店の跡も名残をとどめている。 寛政8年(1796)この峠を通過した有名な紀行作家、鈴木牧之が「大洋に潮の花や朝日の出」などの句を詠んだことでも知られている。 平成14年3月20日 紀伊長島町教育委員会” とあった。 |
||||||
14:53 | ゴールさくらの広場到着。 ここから山手を眺めると水力発電所のパイプが見えた。
今日の歩行距離は約3.5Km程だそうで、「ウオーク」としては短いというか頼りないというか? が、まあ暑くもなく寒くもなく、西川・堀下両名がいても雨も降らず、結構な一日でした。 |
||||||
15:10 | バスで帰途。 | ||||||
19:00 | 近鉄奈良駅着。 ひがしむき商店街で反省会。 | ||||||
20:30 | 自宅着。
|
|
|||||||
8:10 | 今日の天気予報は“雨”!それなりの重装備で出かける。 近鉄奈良駅に7:40集合なのに一人来ない! 8:10になっても姿を現さない(結局キャンセルだった)! 遅れてスタート。 |
||||||
11:50 〜 12:30 |
いつもの通り、関宿で休憩、道の駅“まんぼう”で休憩、道の駅“海山(ミヤマ)”で昼食。 食後、バスの41名を2班に分けてボランティアガイドに続いてスタート。 我々2班は川口ガイドの案内を受ける。 雨はしっかり降っている。 リュックはバスに残し、身軽に傘だけで歩く。
馬越峠登り口からすぐ、びっしり敷き詰められた石畳が続く。 有名な尾鷲の大雨!毎度のこの大雨にも流されずに道を守ってきた。 誰がこんな大きな重い石を作業したのだろうと素朴な疑問を持つ。(↓の解説から便ノ山に石工がいたのだ) 「古来、熊野へ続く道は祈りの道であった。ある者は極楽浄土の来世を夢見て、またある者は心身の悩みの癒しを求めて、一歩一歩石畳を踏みしめて行った。 「熊野へ参るには紀路と伊勢路のどれ近し、広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず」 『梁塵秘抄』に唄われたように、熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)へは、紀伊半島を東から廻る紀伊路(中辺路・大辺路)を中心に、中央部の峻険な山地を南下する大峰道、海路(磯辺路)などのルートがあった。 ここ馬越峠は、「くまのみち」と呼ばれた熊野街道の一部で、明治以来大正6年までは県道であった。 路線が変更されて今は通る人も稀であるが、麓から峠までの約2Kmの大部分は、敷石によって路面が舗装されていて、今も殆ど完全に昔の面影をとどめている。 敷石は大きく、平らで、現存する石道のなかでも端正な表情が際立っており、施工した便ノ山の石工の技術がうかがえる。 石は麓から運び上げたものではなく、全て現地調達されたという。石の表面がところどころ白くなっているのは、材木を曳きおろす際に苔が削りとられたもの。 植林により狭まった箇所もあるが、道幅は紀州藩の駕籠にあわせて一間半(約2.7m)を基本としていた。」 |
||||||
13:10 | 夜泣き地蔵。 ここまでの石畳道は雨に濡れてとても歩きにくい。両脇の檜の林とこの石畳が写真撮影のポイントらしいが、写真は真っ黒で写りが悪い。
|
||||||
13:36 | 馬越坂の一里塚。
馬越坂の一里塚は、石畳道の両側にあり、その昔は西に松、東側に桜が植えられ、峠越えで疲れた旅人たちの憩いの場であったことが想像される。・・・」 川口ボランティアガイドは拡声器を付けて説明してくれているが、少し離れているとさっぱり聞き取れない。 どうもこの熊野古道シリーズ、ガイドには恵まれない。 |
||||||
14:00 |
アメリカのぺりーが来航した嘉永7年(1854年)に近江の国の俳人桃乙(トウイツ)を偲んで建立されたという。 桃乙で他に「くつはむし 道に這いでよ馬古世坂」も詠んでいる。 |
||||||
峠から後はただただ下るのみ。 濡れ石は困る。神経を尖らせ恐る恐る滑らないように歩く。 最後の方で、ある一人の男はフラフラでやけくそみたいに水溜りを歩く。靴の中はビショビショだろうな。 |
|||||||
|
|||||||
15:19 | 下り坂を下りきると、国道に出る。そこに金剛寺。そして隣に尾鷲神社。
|
||||||
15:35 | JR尾鷲駅着。帰路へ。 | ||||||
20:30 | 自宅着。
|
第5回目 八鬼山越え(標高627m) 2011.3.18(金) 参加費6900円
|
|||||
6:00 | 東日本大震災の起きたのがちょうど1週間前の3月11日、日に日に犠牲者の数が増えている。ついに阪神大震災の犠牲者の数を上回った。 自宅をスタート。この熊野古道のシリーズの中で一番早いスタート時間。 |
||||
7:00 | 近鉄奈良駅をバスで出発。 長距離なので運転手は二人。 添乗員は元生(モトイキ)という男性。 |
||||
10:40 〜 11:20 |
|
||||
11:35 |
|
||||
11:45 |
江戸時代・文化2年(1815)大阪中座で初演をみた「敵討ち浦の朝霧」の歌舞伎の中で「女巡礼殺し」の行われた舞台として「紀州八鬼山峠の場」が登場したが、八鬼山が「難所」として西国巡礼などを通して一般に知られていたためであろう。 八鬼山道は大部分が石畳道であるが、敷設年代は不明である。「登り50町、下り38町」の距離も起点・終点が定かではないが、先人たちの「道づくり」の工夫と苦心の跡が随所に見られる。 山頂の八鬼山峠(標高627m)から十五郎茶屋を経由して旧名柄村に至る古くからの熊野古道(通称・江戸道)は明治28年(1895)に計画された新道(明治道)の完成により荒廃した。 沿道には、行き倒れ巡礼供養碑・茶屋跡・駕籠立て場・清順上人供養碑・町石・一里塚・道標・荒神堂などの史跡も多く、山頂の「健康とゆとりの森・芝生の広場」に立つと、志摩半島から那智山の山並みまで熊野灘の大パノラマが眺望できる。 八鬼山道(尾鷲側)は、昭和63年(1988)3月、三重県文化財(史跡)に指定され、また平成8年(1996)11月には、文化庁から馬越峠道とともに、熊野参詣道(伊勢路ー八鬼山道)として「歴史の道100選」のひとつに選定された。 |
||||
12:03 |
|
||||
12:10 |
|
||||
12:25 |
|
||||
12:50 |
|
||||
13:20 |
|
||||
13:34 |
|
||||
14:06 |
|
||||
14:27 |
|
||||
14:55 |
|
||||
15:00 | あとは黙々と下るのみ。 くだりは膝に応えるのでそろりそろりと下る。 前回(2006年5月)、ここを歩いたときは周囲の杉の木には「世界遺産反対」「反対」と赤いペンキや白いペンキで書かれていたが、今回は随分消されていた。 が、まだその名残があった。 林業の地主が世界遺産になると、自分の木すら自由に処分できないことに怒りを込めてこのように書いたという。
|
||||
16:50 | 三木里着、ウオーク終了。 |
||||
21:45 | 自宅着。
|
第6回目
三木峠・羽後峠道 2011.4.11(月) 参加費6900円
|
||||||||
7:10 | 近鉄奈良駅スタート。 運転手は山口さん・添乗員は木村さん。 今日は我々13名を含め、満員の46名という。 |
|||||||
9:15 | 関インター休憩。〜10:45 道の駅“まんぼう”。 |
|||||||
11:30 | “おとと”で昼食40分。 食後バスにボランティアガイドが二人乗り込んできた。古山ガイドと鈴木ガイド。この古山氏は前回担当してもらったガイドだ。 我々遊歩のメンバー13名を含む25名は古山班。 |
|||||||
12:40 | 三木里駅そばからウオーク開始。
膝痛のため、借りようかどうしょうか迷ったが、写真を撮るとき結構邪魔になるので借りずに進む。 しばらく進むともう坂道が出てきた。 今までならなんともなかった坂なれど、膝を痛めてからは“用心・用心”。
|
|||||||
12:56 | 短い坂道を登ると道の真ん中に大きな石。 “比丘尼転び”と書いてある。
ガイドの説明によれば「その昔比丘尼がここを後ろ向きに歩いていて、この石に気づかず仰向けにひっくり返った。昔のことゆえ着物の前がはだけて見せてはならないものが丸見えになった」とどうでもいいような話・・・。 |
|||||||
13:08 |
|
|||||||
13:20 | 峠道を歩いていると眼下に三木湾が見える。
|
|||||||
14:10 | 道脇斜面に“桃太郎石”を見、細いなだらかな坂道を上り詰めると三木峠。
|
|||||||
14:15 |
|
|||||||
14:20 |
|
|||||||
14:30 |
|
|||||||
14:48 |
【オコゼへの恨み「山の神」の話】 尾鷲市の矢浜は、東が青い松が生い茂り、砂の白い国市浜で、海の神様がときどき手下の魚族を連れて散歩を楽しみました。 また矢浜は田畑が多い村で、上地・下地・野田地の三地区には、それぞれ「田の神」がいて地区の田畑を守っていました。 11月の稲の収穫がすむと、田に用がなくなるので、田の神は山へ帰って「山の神」になります。 矢浜では三地区の農耕者たちが、それぞれ2月7日に田の神としての「山の神」を祭り、同じ神社を11月7日には林業者たちが山の神として祭りをします。 あるとき海の神と山の神とが、矢浜村でばったりと会い、お互いに手下の自慢話になりました。 最後には、手下が何種類いるかという争いになりました。 海の神は、タイ、ヒラメ、アジなどを呼び寄せ、山の神様はキツネ、タヌキ、クマなどの手下をかり集め、お互いに種類の数を確認したところ同数でした。 この勝負あわや引き分けになろうとしたとき、海からオコゼが一匹はい上がってきました。 それで勝負は海の神の勝ちとなりましたが、それ以来山の神はオコゼを恨むようになりました。 矢浜の山の神の祭りには、当人がオコゼを一匹ふところに入れて参列します。 もう一人の当人が神扉を開くと、袖口からオコゼの頭をチラリと出し「ちょつと山の神にオコゼをお見せ申す。」といい、そのとき当人はじめ氏子一同がアハハと大笑いします。
|
|||||||
15:15 |
|
|||||||
15:38 |
|
|||||||
15:45 |
五輪等は上から宝珠の空輪、請花の風輪、笠石の火輪、塔身の水輪、基礎の地輪からなり、「空・風・火・水・地」の五大を宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づいて平安時代に創始され鎌倉以後は先亡者の供養や墓石として作られた。・・・・・ この五輪塔の北方に秋葉山がある。秋葉山は静岡県周智郡春野町の秋葉神社が本社で「鎮火・防火の神」として崇敬され室町時代から江戸時代にかけて盛んに地方に浸透し分社が作られた。賀田の秋葉山もその一つで小高い丘に鎮座し、賀田を火災から守った。・・・・ |
|||||||
16:00 |
|
|||||||
17:00 | 道の駅“まんぼう”でトイレ休憩。 例によってここでアルコールを求めようと、激安酒屋へ行くと何故かお休み! そのせいか帰りのバスはH氏・N氏をはじめみなさん、シュンタロー。 |
|||||||
21:45 | 自宅着。
|