今回はB班担当で
大原バス停⇒三千院⇒後鳥羽・順徳天皇陵⇒勝林院⇒寂光院⇒建礼門院陵⇒阿波内侍の墓⇒乙が森⇒大原バス停
を歩いた。 |
|
三千院前の呂川。
仏教音楽天台声明の発祥の地、魚山を源とする呂川と律川の名前は和楽の旋法に因んで
名付けられた。
調子はずれを「呂律が廻らない」というのも、このことが語源になっています。 |
|
|
10:45 |
三千院:天台宗。最澄開基。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。(入山料:700円)
門跡とは、皇族・貴族が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。
|
11:27 |
(第82代)後鳥羽・(第84代)順徳天皇陵。(参考:http://mannpomann.kt.fc2.com/81antoku-85.htm#82)
後鳥羽天皇は隠岐の島で、順徳天皇は佐渡島で火葬されている。
陵は後鳥羽天皇が十三重の塔、順徳天皇は円墳だが残念ながら死角で見えなかった。 |
11:32 |
勝林院:古くから来迎院(左京区大原来迎院町)とともに天台声明の道場であった。1186年(文治2年)には顕真と法然との宗論(いわゆる大原問答)がこの寺で行われた。(入山料:300円)
勝林院 |
欄間の彫刻 |
西林院堂 跡 |
|
← 夕ほたる 米を一つの律呂川
大阿弥陀 いざく魚山よ 初音すむ |
勝林院から宝泉院に向かう道に、法然上人が腰掛けたとされる法然腰掛石があった。→ |
|
法然上人 腰掛石 |
|
|
11:44 |
宝泉院。 |
宝泉院 |
宝泉院境内 |
|
|
11:50 |
椿地蔵を過ぎ、不断桜を見て、コスモス畑で昼食。 何人かはお店で昼食。
|
13:19 |
昼食後、大原温泉湯元を見て(第80代)高倉天皇皇后徳子の大原西陵。(参考:http://mannpomann.kt.fc2.com/76konoe-80.htm#80)
湯元 |
高倉天皇皇后徳子の大原西陵 |
高倉天皇皇后徳子の大原西陵 |
|
高倉天皇皇后徳子:平清盛の娘で安徳天皇の母。 壇ノ浦の戦いで入水するも源氏の兵に助けられる。
|
13:23 |
寂光院:大原にある天台宗の寺院。山号を清香山と称する。寺号は玉泉寺。本尊は地蔵菩薩、開基は聖徳太子と伝える。平清盛の娘・建礼門院が、平家滅亡後隠棲した所であり、『平家物語』ゆかりの寺として知られる。(入山料:600円)
|
13:58 |
阿波内侍の墓。
|
14:18 |
乙が森。
乙が森 |
|
|
昔々、大原の里におつうという娘が住んでいました。ある日、上洛の若狭の殿様の目に触れ、おつうは殿様の国元に召されました。毎日、楽しく過ごしていたのですが、おつうが病にかかると、殿様の心も変わってしまいました。おつうは悲しみのあまり、大原川に身を投じました。すると、美しい姿 がみるみるうちに大蛇に変身。
ある日、都入りする殿様の行列が大原の花尻橋に通りかかったところをおつうの大蛇が襲いました。大蛇は家来によって斬り捨てられましたが、その夜から雷鳴とどろき、激しい風雨や悲鳴にみまわれました。恐れた里人たちは、大蛇の頭をおつうが森に埋め、尻尾を花尻の森に埋めて霊を鎮めたということです。今でも大原の里にかかる朝もやは大蛇の姿に棚引いているといわれています。
|
17:00 |
生駒に帰り、鶏太郎で12名の反省会。~立楽酒で5名の反省会。~シルバーで5名の反省会。
|
20:00 |
帰着。 |
|
本日の総歩行数:約 22,626歩。 |