漫歩マンの寿大学活動記録
2006.10.17(火)  2年生 第5回目  今井町・藤原宮跡
8:00 自宅スタート。
天気は快晴。
8:30 生駒駅で電車に乗る。
西大寺駅で乗り換えると大勢の寿メンバーがいた。
酒井氏と隣り合わせになり、11月3日の箕面自主ハイクのことを話す。
酒井氏「昔は箕面にはサルが自動車の上に群がってきていたが、今はまったく居ない。」と言っていた。
9:09 八木西口駅で降車。
谷係長の挨拶と今日の今井町の説明をお願いする5人のボランティアガイドの紹介がある。
マロは3班でボランティア木村さんのグループ。

今井町の地図を前に木村ボランティア
今井町(重要伝統的建造物群保存地区)
この町は、天文年間(1532〜55)本願寺の一族、今井兵部が現在の称念寺を開き、寺内町として発展した。元亀元年(1570)織田信長の一向宗弾圧が始まると、町の周囲に堀を深くし土塁を築いて信長に抗したが、天正3年(1575)明智光秀のとりなしで武装放棄した。その後自治権を持ち、今井札という銀札を発行し、商業活動が活発であった。両替商・酒屋・塩屋などの株仲間も発達した。・・・

「奈良の金は今井に七分」といわれたほど栄えたらしい。
町の中を歩いていると道は入り組んでいる。路地が多い。これは外敵が自由に動けないように町を守っているらしい。
町の入り口にはお地蔵さんが祀られている。

町の入り口の地蔵堂

町家風景
町家の端、二階部分の隣家との境には袖壁が造られている。火災の際隣家へ類焼する事を予防している。

町には河合家・今西家・尾崎家・上田家等何人かの惣年寄りがいて、町の治安を守っていた。
簡単な裁判はここで行われたと。

上田家内の竈

上田家


造り酒屋

醤油屋
町にはいくつかのお寺があるようだが、中心は称念寺
今井町は、この寺の境内地に発達した寺内町である。明治10年、天皇の畝傍御陵行幸のとき行在所となった。
檀家はいまではほとんどなくて建物の維持すらできない。国の予算を待つばかりで本堂は倒れんばかり。つっかい棒で支えている。

多武峯から移築の山門

本堂横にはつっかい棒が
11:50 約30分、今井地区公民館“華いらか”で昼食。
12:55 午後はおふさ観音から。
当寺は通称おふさ観音、正式名を高野山真言宗別格本山 観音寺といいます。
高野山真言宗とは、お大師様として今もなお多くの方から信仰を集める弘法大師を宗祖とする宗旨です。
通称名は、江戸時代に土地の娘「おふさ」さんが、この地で観音様を奉りはじめたのが後にお寺に発展した事に由来します。
ご本尊さまは十一面観音様で、元々身体の健康を授けて下さると言われておりました。
近年はそれ以外にも開運厄除け、子授け、ボケ封じなどさまざまなお願い事をかけられる方が増えております。


おふさ観音山門
境内にはバラの花が咲いている。10月20日頃が見ごろだとか。
13:25 藤原京跡。
周りには畝傍山・天の香具山・耳成山が見渡せる。コスモスの花が満開だ。
藤原京時代の朝廷の朝堂が発見され、発掘作業をしていた。数日後にはまた土をかぶせて元に戻すらしい。

藤原京跡のコスモス

藤原宮四堂発掘作業
13:40 奈良文化財研究所を見学。
14:30 近鉄・耳成駅にて解散。
本日の総歩行数:19,662歩、ドアtoドア歩行距離:約14Km。
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