漫歩マンの寿大学活動記録
3回目 2005.6.14(火)晴れ 奈良公園
9:00 近鉄・奈良駅行基噴水そばに集合。一年生は25名。すぐスタート。
9:08 奈良公園の鹿を右手に見て。

 鹿が糞をすると、すぐに昆虫が集まってきて糞を食べはじめる。糞に集まるので、糞の虫「ふん虫」と呼ばれている。奈良公園には40種類くらいのふん虫がいて、そのうち奈良公園にしかいないものが5種類、全国的にも珍しいものが2種類いるそうである。奈良公園はふん虫の宝庫である。この、ふん虫には、糞の下に穴を掘って糞を運び込んで食べるものと、糞の中にもぐりこんで、何日もかけて食べるものとがある。こうして、鹿の糞がドンドン分解処理されて芝生の肥料になるのである。奈良公園の芝生は、芝刈りも、肥料やりもしなくてよいのである。みんな、鹿とふん虫がやってくれるのである。自然の仕組みは実にうまくできている。

奈良公園の鹿
9:17 奈良公園から県庁の角を左に曲がるとすぐに「轟橋」「雲井坂」跡がある。

 室町時代に書かれた「蔭涼軒日録」には「南都有八景、東大寺鐘、春日埜鹿、南円堂藤、猿沢池月、佐保河蛍、雲井坂雨、轟橋旅人、三笠山雪」という有名なくだりがある。
いかにも奈良を代表する風景ばかりで季節感もあり、見事な選定である。

雲井坂
9:28 転害門(国宝)。国宝といってもネコには通じない。最近10匹以上のノラネコが住み着き、爪とぎ・ウンチで困っているらしい。

 転害門は、東大寺の西面の一条大路(佐保路)に面した大門である。東大寺では、平城京との関係で、西南の門には南から西大門・中御門・転害門がおかれた。転害門は、鎌倉時代に修理の手は加えられたものの、木材は奈良時代のままで、天平勝宝年間(749〜757)創建時の姿を見事に伝えている。

転害門(国宝)

9:39 北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんこ)。

 真言律宗の僧で、叡尊の弟子忍性が、ハンセン病患者のために建設したといわれる建物である。わが国で最も古い病院遺構であるとともに救済事業施設の遺構である。
当初は般若寺の北東に立てられたこの建物は、1567年、三好・松永の乱で焼失し、1661〜72年の間に現在の地に再建された。


北山十八間戸

9:45 般若寺。
ご住職のお話を含めて45分の休憩。
この寺は生駒の宝山寺とともに真言律宗で総本山は奈良の西大寺だとのこと。

 629年、高句麗の僧慧灌(えかん)がこの地に寺を建て文殊菩薩を安置したのが始まり、その後735年(天平7年)聖武天皇のとき、堂塔を造営されたと伝えられている。京都から奈良への要路にあるため、治承の兵火をこうむったが、鎌倉期の優美な建築様式を持つ楼門(国宝)が残っている。楼門の奥正面に立つ十三重塔(国重文)は、1253年頃、東大寺再興のために来日していた技術者の一人である宋の石工伊行末らによって建立されたもので、宇治市の浮島にある十三重石塔とともに鎌倉時代を代表する石塔である。
 

十三重の塔

重文笠塔婆


般若寺本堂
10:35 奈良少年刑務所。
 明治34年起工、明治41年7月完成。

以前仕事の関係で内に入れてもらったことがある。たしか、散髪屋、洋服の仕立て屋、木工屋、靴屋とかの職業訓練をやっていたように記憶する。

奈良少年刑務所
10:55 正倉院。

 東大寺大仏殿の北西にある松林の中にあり間口33m、奥行9.3mで40本の柱の上に立つ高床式・瓦葺きの建物である。南北に長い建物で、1棟を3区分して北倉、中倉、南倉と称している。
正倉院宝物の特徴、
@由緒が正しい。何年何月に何を入れたかという目録が備わっている。
A楽器、調度、文房具、飲食器、年中行事品、武器、仏具、など多種多様で変化に富む。
B水準の高い一級品で占められている。
C保存状態の良好な伝正品である。保存には、風通しがよくて湿気を防ぐために高床式で校倉式建物とし、さらに宝物には足つきの箱に保存した。また、虫やねずみの害を防ぐために、防虫香を使ったり建物には丈夫な材料を使い、入り口にはねずみがえしの板を取り付けた。
D8世紀を中心とした時代の、東西交流を物語る品々が豊富にあり、世界各地との往来を如実に表している。


正倉院
11:10 東大寺鐘楼(国宝)。知恩院の鐘(重さ70t)はまだもう一回り大きい。
 大仏殿東方の丘にある鐘楼は、天平時代に造られた高さ3.9m、重さ26tの巨大な銅鐘(国宝)を吊るのにふさわしい、いかにも堅固な建物で、13世紀前半に再建されたものである。

東大寺鐘楼(国宝)
11:15 二月堂(国重文)。
 
毎年3月1日から14日まで二月堂で行われる東大寺最大の法会“修二会”は、752年(天平勝宝4年)実忠(じっちゅう)和尚(良弁僧正の高弟)によって始められてから今まで、1回の断絶もなく続けられてきた。修二会の行法は、本尊十一面観音像の前で自らの罪をざんげして、天下泰平、万民豊楽を祈る法会である。

写真左奥が二月堂(国重文)

法華堂(三月堂、国宝)
 
 平城京外京の東山に東大寺の前身とされる金鐘寺という寺があった。
この堂は金鐘寺の一堂として8世紀半ばにはすでに建立されていたと考えられる東大寺最古の建物である。不空羂索観音を本尊とするところから羂索堂(けんじゃくどう)とよばれ、信仰だけでなく古くから学問の場として有名であった。良弁が執金剛神を安置して修行に励んだのもこの堂であったといわれる。毎年旧暦の3月には法華経を講ずる法華会が行われてきたので、やがて法華堂あるいは三月堂と呼ばれるようになった。

 天平時代の寄棟造りの本堂と、鎌倉時代の入母屋造りで再建された礼堂をつないだ建物で、堂の西側に立って屋根を見上げると、左方の天平時代建築と右方鎌倉時代建築のそれぞれの特徴がよく分かる。
11:25 手向山八幡宮。

 749年12月、東大寺大仏殿建立のため大分県の宇佐八幡宮より東大寺守護の神として迎えられた。明治維新までは“東大寺八幡宮”と称していたが、神仏分離令により、地名を取って“手向山八幡宮”と称するようになった。
百人一首にある「このたびは幣もとりあえず手向山 紅葉の錦 神のまにまに」菅原道真公の詠まれた詩は、この神社を詠んだものである。〔今度の旅は、あわただしく出発してきたので、この手向山の神にささげる幣を用意してありませんでした。そこで、手向山の錦のように美しい紅葉を、幣として神様の心にかなうことを願ってささげます。〕

菅公腰掛石

11:35 東大寺南大門。

 752年に創建された東大寺の正門で、12世紀後半の台風による倒壊や治承の兵火を経て、重源上人が宋の技術を導入して造らせた。入母屋造り、本瓦葺き、屋根裏まで通っている通し柱は21mに及ぶなど、この門の重厚、雄大な姿は下に立つものをを圧倒する。
この門の中には東西相対して阿吽一対の金剛力士像(国宝)が安置されている。


金剛力士阿像(国宝)

金剛力士吽像(国宝)

仁王像の裏側のこまいぬ

仁王像の裏側のこまいぬ
 
仁王像の裏側のこまいぬ、般若寺の石塔と同じく宋の石工、伊行末の作という
11:20 春日大社。

 710年(和銅3年)藤原不比等が、平城遷都の際藤原氏の氏神を祀っていたのが起こりとされ、768年に今の地に社殿を造営、興福寺と同様藤原氏が勢力を伸ばすにつれて盛んに社殿の造営が行われ、平安前期に現在のような規模を整えた。中世以降は信仰も庶民の間へと広がっていった。“万灯ろう”で知られるさまざまな形の釣灯篭、石灯篭の多くが庶民の寄進によるところからも、それがよく分かる。

                   

春日大社

万灯ろう

万灯ろう

屋根を突き抜くシンパクの木
14:35 興福寺。

 奈良時代には貴族文化の旗頭として栄えた。南都七大寺のなかでも最も密接に奈良の街とつながりを持ちながら発展した。
710年(和銅3年)藤原不比等が飛鳥から平城宮へ前身の厩坂寺を移転して、藤原氏の氏寺として、藤原一族の隆盛とともに寺勢を拡大した。最盛時には数多くの僧坊が立ち並んでいたという。1180年(治承4年)平家に焼き討ちされ、ほとんどの堂塔が焼失した。
現在の堂塔は、鎌倉以降の建物を一部残し広い境内に中金堂、東金堂(国宝)・北円堂(国宝)・南円堂・五重塔(国宝)・三重塔(国宝)・大湯屋(重文)・大御堂・国宝館が立ち並び、仏教彫刻類は天平時代の名品を数多く保存している。

五重塔

南円堂  (北円堂は建替え中)
14:50 奈良町・庚申堂ほか。

 応仁の乱の下克上の風潮の中で、民衆の社会的地位が向上し、奈良でも郷民が一段と力を伸ばした。「奈良町民」という言葉も表れている。社寺の郷が町民の町となり、社寺の支配が緩んで町民の自立が進んだことを示している。自治的な動きも見られるようになった。
やがて江戸時代の支配が確立すると、奈良の町も幕藩体制の中にはめ込まれ、自治は名ばかりのものとなってしまう。しかし、奈良晒(ならざらし)などの産業が栄え、しばらくは奈良の町には活気があった。
江戸時代の中頃から産業が衰え、観光の町としての性格が強まり、のどかな町の雰囲気となっていった。

庚申堂

吉祥堂
15:00 率川神社(いさがわじんじゃ)。本殿が工事中だった。

 延喜式内社で春日三枝神社とも呼ばれ、三輪にある大神神社の摂社である。
6月17日に行われる三枝祭りは、ゆりまつりともいい、梅雨の時奈良を彩る優雅な祭りである。
15:25 漢国神社(かんごうじんじゃ)。

 創祀はかなり古く、奈良時代以前にさかのぼるといわれるが、平安時代末以降は春日大社の末社として、興福寺の支配を受けた。桧皮葺きの屋根を持つ本殿(県文化)は、桃山時代の様式を伝える美しい建物である。
境内の鎧蔵には1614年10月大坂冬の陣に向かう徳川家康が奉納したという鎧が残されている。
4月19日には饅頭の製法を伝えた「浄因」の命日に当たり、“まんじゅうまつり”が行われる。
漢国神社
ここで、解散式。
本日の総歩行数:27,796歩、総歩行距離:19.6Km(正味:約14Km)
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