漫歩マンの寿大学活動記録
1回目 2005.4.26(火) 大学入学初めてのハイキング。当麻寺周辺
7:20 自宅をスタート。小雨が降っている。生駒駅に着いた頃には小雨はやんだ。
西大寺駅では種井さんがご挨拶してくれる。
9:00 橿原神宮前駅で全員集合して出欠確認、今日の資料をもらう。藤田氏が無連絡欠席だ。班長の片山氏が彼の家に電話をして判明。
9:30 磐城駅をスタート。
すぐに式内長尾神社。ここでは2年生の大山さん(家内の知人)にご挨拶。
10:00 孝子碑。ボランティアの方(女性)が説明をしてくれる。

「その昔、病弱な父親への孝行に生涯を尽くした孝女伊麻をたたえるもの。伊麻は寛永元年(1624年)に南今市の集落で生を受け、竹内村の庄屋粕屋甚四郎(松雄芭蕉の門人の千里)のもとで働きながら弟と2人で父の看護に努めたといわれている。芭蕉は伊麻と会った感激を「よろずのたつときも伊麻を見るまでのことにこそあなれ」と述べている。」
等々。
10:30 綿弓塚。この塚の少し手前には司馬遼太郎のお母さんの家だと「河村」と表札のある立派な家を教えられる。
ここでもボランティアの方(男性)が説明をしてくれる。

綿弓塚は、芭蕉が門人千里をつれて、千里の旧里竹内に宿ったときに詠んだ句を記念し文化年間に建てられた句碑が「綿弓塚」として残っている。
「綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥」 松尾芭蕉
11:25 当麻寺。

當麻寺は、用明天皇の皇子麻呂子王(聖徳太子の弟)が、河内国交野に建てた万法蔵院に始まる。
當麻氏の氏寺として、天平期の初頭ごろ、創建されたものとされている。平安時代には興福寺の末寺となり、治承4年平家の南都攻めの際に金堂が大破し、講堂は焼失してしまったが、間もなく源頼朝が施主となって再興した。創建当初は三輪宗を奉じていたが、弘仁14年に空海が当寺に参籠してから真言宗となり、のち浄土宗が興ると當麻曼荼羅を中心とする浄土信仰の霊場として栄えた。現在は、真言・浄土の両宗併立となっている。
5月14日の二十五菩薩来迎会は、「當麻おねり」として名高く、またこのころには有名な牡丹(ぼたん)の開花期(4月中旬〜5月上旬)にあたる。
12:00 葛城市の交流館で昼食。食事しながら自己紹介。
片山班長から副班長を作りたいと提案があり、連絡網順の足立氏・酒井氏・西川氏に決定。
13:05 山口神社〜傘堂

傘堂は左甚五郎が造ったと伝えられており、大池の東畔にある。1辺40cmあまりの方柱にの上に、方形造の屋根の頂上に瓦製の宝珠露盤をのせている。また、傘堂はぽっくり信仰(天寿をまっとうしてぽっくり死ぬように)が伝えられている。傘阿弥陀は石光寺に、鐘は明円寺に保管されている。
13:15 高雄寺。

雑木林にかこまれた中にたたずむ寺で、白鳳年間に役小角によって創建されたと伝えられている。伝えによると、平安後期、恵心僧都源信の母は、当時の観音菩薩に祈願して源信を授かったという。今も平安後期の薬師如来像と、平安初期の聖観音立像を寺宝としている。
13:25 石光寺。拝観料400円なるも市が負担してくれた。ありがとうございます。庭のボタンが見事に咲いている。
住職さんが親切に説明してくれた。

寺伝によると、天智天皇の時代、光を放つ土地があるので掘ったところ、光り輝く弥勒三尊の石像が出てきた。そこで勅願により役小角が堂宇を建立、石光寺と称したのが起こりという。この寺も中将姫ゆかりの寺で、境内に蓮糸曼荼羅の糸を染めたという染めの井があり、寺名も別称染寺という。また、牡丹の名所として知られ、春牡丹の開花期には花見客でにぎわう。平成3年に弥勒堂建て替えの際に発見された石造弥勒仏は、現存する石仏では日本最古(白鳳時代)の貴重なものです。

朝の当麻寺をまた通り、
14:30 けはや塚。ここで解散。

當麻蹶速の伝説
この地に「當麻蹶速」という人がおりめっぽう力が強くだれもかなうものはないと豪語していた。時の垂仁天皇が「だれか相手になるものはいないか」という問に出雲の国の「野見宿禰(のみのすくね)」というものがあらわれ、7月7日に相撲をとらせ結果、蹶速塚は腰骨を蹴り折られて命を失ってしまった。野見宿禰は褒美として蹶速の所有していた土地をもらった。(香芝市に腰折田という地名がある)
16:20 自宅に帰着。本日の歩行距離:約10Km。本日の総歩数:21,500歩。

長尾神社の絵馬

綿弓塚

当麻寺

傘堂

石光寺にて

石光寺にて

二上山遠景

中将姫の墓塔

相撲館


あしひきの やまのしずくにいもまつと
われたちぬれぬ やまのしずくに
                 大津皇子


うつそみの ひとなるわれや あすよりは
ふたかみやまを いろせと わがみむ
                 大伯皇女
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